白に閉ざして

 氷の王である雨彦がそこに赴いたのは、氷の大地に最近度々現れる汚れを伴った者がそちらの方から来ているらしかったからだ。
 そうでなければわざわざ自らの権能の薄い、凍て付くことのない場所にになど訪れようとも思わなかっただろう。氷の王の中で汚れへの対処に最も適性があるのが雨彦だっただけで、今ここにいるのは他の王でも構わなかった。
 自ら進んでその役目を引き受けたとはいえ、面倒なことに変わりはない。出来ることなら手早く片を付け、さっさと城へ戻るつもりでいた。
 そう、彼の姿を見るまでは。
 深い藍色の装束を纏った男が、海辺に立っている。
 風に揺れる長い亜麻色の髪。その下に覗く瞳には、慈愛とほのかな憂いが宿っていた。氷の王と呼ばれる自分よりも、余程怜悧で美しい顔立ちだ。
「お前さんは……」
 思わず声を掛けると、男は驚いたように振り返り、すぐに笑顔を浮かべた。
「貴方は、もしやこの氷の大地の王ですか?」
 氷の大地には幾つもの領域があり、それぞれに王がいるが、雨彦が氷の王であることは間違いないので曖昧に肯定する。
「まあ、そうだな」
「やはり!」
 その美しい男はクリスと名乗り、自分が氷の大地に接する北の海を治める王なのだと明かした。
 それが、雨彦とクリスの出会いだった。

「こうして治める場所が隣り合っているのに、お会いするのは初めてですね」
 王たちはそれぞれ、己の権能が及ぶ範囲を治めている。人間の国のように明確な境界があるわけではなく、領域の境目もまた、曖昧になっていく。
 同じ氷の王同士であっても、普段はそれぞれの領域で過ごすものだ。互いに深く干渉することも、そう多くはない。
「同じ王とこうして話す機会は、あまりありませんから」
 クリスは、どこか嬉しそうに笑った。
「そういうものかね」
「ええ。とりわけ海は広いですし、皆気ままなものですから。気付けば、随分長いこと誰とも話していなかった、ということもあります」
 なるほど、と雨彦は思う。初対面にも拘わらず妙に親しげなのは、そうした事情もあるのかもしれない。尤も、相手への警戒心が薄いことに変わりはなかったが。
 この海辺は、どの王の権能も辛うじて届く程度の場所だ。氷の大地の端であると同時に、海の端でもある。どちらの領域とも言い切れない、曖昧な場所だった。
 それにしても、こんなところで何をしているのか。
 雨彦が尋ねるより先に、クリスが口を開いた。
「私は時折こちらへ来て、海の様子を見て回っているのです」
「はあ……」
 気のない返事にも、クリスは気を悪くする様子を見せない。
「私の治めるこの辺りの海は、寒さこそ厳しいものの、多くの生き物たちが暮らしています。南の海のように色とりどりではありませんが、生命力に溢れた彼らは、とても美しいのですよ」
 海について語るクリスの瞳が輝く。
 この男は、本当に海が好きなのだろう。
 ただ自分の治める場所だからというだけではない。そこに生きるものたちを、心から慈しんでいるようだった。
 無防備な男だ、と雨彦は思う。初対面の相手にも躊躇いなく好意を向ける。その性質は、王としてはいささか危うい。
 それでも、海について語る彼の表情は悪くない、と雨彦は感じた。

 +++

 それから、雨彦とクリスは幾度となく顔を合わせるようになった。
 雨彦が汚れの痕跡を追って海辺を訪れると、決まってクリスの姿がある。二度、三度と出会いを重ねるうち、雨彦は彼が自分を見付ける度、嬉しそうに笑うことに気付いた。
「今日もいらしていたのですね」
「役目のうちだからな。お前さんこそ、毎日ご苦労なことで」
「私の方も、少し気になることがありまして」
 そう言ってクリスは海を見詰め、波の高さや潮の流れを確かめる。しばらくすると、決まって「今日も大きな変化はないようです」と微笑むのだった。
「お前さんは、随分と海が好きなんだな」
「はい!」
 迷いのない返事に、雨彦は思わず笑ってしまう。
「海がどんな姿をしているのか、どこで流れが変わるのか。そういうことを知るのは、とても楽しいのですよ。同じ場所でも、昨日と今日では少しずつ違いますから」
 初めて会った時には、どこか憂いを帯びて見えた男だ。今もその面影はあるものの、海について語る瞳には、真っ直ぐな好奇心が宿っている。
 王というものは、己の支配する場所を当然のものとして扱うのだと思っていた。少なくとも雨彦自身は、氷の大地をこれほど熱心に眺めたことがない。
「変わってるな、お前さんは」
「そうでしょうか?」
 クリスは少し考え、やがて傾いてきた日に気付くと、申し訳なさそうに笑った。
「つい、話し込んでしまいましたね」
「いや、別に構わないさ。退屈凌ぎにはなる」
 そう答えると、クリスはほっとしたように笑みを深めた。
 まあ、悪くない時間だ。
 いつしか二人は、顔を合わせれば自然と会話を交わすようになった。クリスが話すのは、専ら海のことだ。雨彦は聞き役に回ることが多かったが、彼の話を押し付けられているとは感じなかった。
 雨彦が然程興味を示さなければ、クリスはそこで話を切り上げる。別の話題を切り出せば、素直にそちらへ耳を傾けた。自分の知っていることを話したい気持ちはあるようだったが、相手にも同じだけの関心を求めているわけではないらしい。
 その距離感が心地良かった。

 ある時、雨彦が氷の大地に現れた汚れの痕跡について話すと、クリスはいつになく真剣な顔で耳を傾けた。
「そちらにも影響が出ているのですね」
「後始末が少々面倒でね」
「それは……申し訳ありません」
「お前さんが謝ることじゃないだろう」
「ですが、海から流れてきたものなのでしょう?」
「だからって、お前さんが作り出しているわけでもないだろう」
 クリスは考え込むように海へ目を向ける。
「海の方でも、何かあったのかい」
 僅かに迷ったあと、彼は静かに答えた。
「少し前から良くないものが海の中に混じって来ているようなのです。調べれば、何か分かるだろうと思っていたのですが」
 それ以上、クリスは詳しいことを話さなかった。
 雨彦も無理に聞き出そうとはしない。ただ、海を見詰める横顔には、いつもより深い憂いが浮かんでいた。
 二人がここにいる理由は、恐らく同じなのだろう。
 それからは少しずつ情報を共有するようになった。雨彦が新たな汚れの痕跡を見付けたと話せば、クリスは真剣に耳を傾ける。調査に進展がなくとも、話し終える頃には彼の表情が幾分和らいでいた。
 そんなクリスの変化が、雨彦は嫌いではない。
 いつしか海辺へ赴く度、無意識にクリスの姿を探すようになっていた。
 クリスは人懐っこい。他の王たちに会わせても、きっとすぐに懐くだろう。そう考えると、何故か面白くなかった。最近はそんな子供じみた考えを持て余している。

 その日はいつもの場所にクリスの姿がなかった。
 帰ろうとした時、岩場の陰から聞き慣れた声がする。
「まだ、——る訳には……」
 覗き込むと、クリスが岩に片手をつき、俯いていた。乱れた髪が頬に掛かり、肩が微かに上下している。
「どうした」
 クリスは驚いたように顔を上げ、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「少し、休んでいただけです。大したことではありません」
「……しばらく座っていたらどうだい。俺も少し休んでいく」
 クリスは少し迷ったあと、礼を述べて腰を下ろした。
 二人で海を眺めているうち、クリスは波の種類について話し始める。けれど、いつもなら淀みなく続く言葉が、今日は何度も途切れた。
「最近、どうにも考えがまとまらなくて。困ったものですね」
「考えすぎなんじゃないか」
「そうかもしれません」
 笑うクリスの頬に、風が揺らした亜麻色の髪が掛かる。その先が、ほんの一瞬、背後の岩肌に溶け込んだように見えた。
 目を凝らした時には、もう元に戻っている。
 見間違いだろう。そう思って視線を逸らしたのに、妙に目の奥に残った。

 それからも、クリスの不調は少しずつ目につくようになった。以前なら何でもなかった距離を歩いては休み、会話の途中で目を伏せる。時には目眩を訴えることもあった。
 ある日、氷の大地について話していると、クリスがふと額に手を当てた。
「すみません。少し、目が回ったようです」
 その指先が、淡い陽光を受けて透けていた。
 雨彦は思わず手を伸ばしたが、クリスがすぐに手を下ろしたため、宙で止まってしまう。
「もう大丈夫です。続きを聞かせてください」
「話なら逃げやしないさ。少し休みな」
 風が吹き抜ける。亜麻色の髪が頬から離れた時、その輪郭が淡く霞んだ。髪の隙間からではない。髪そのものを通して、背後の海が見える。
 今度は、見間違いではなかった。
「……お前さん」
「なんでしょう?」
 何かを尋ねようとした。けれど、クリスの顔を見た途端、言葉が喉に引っ掛かる。
 いつもと変わらない笑顔だった。
 その笑顔を崩すのが怖いと思った自分に、雨彦は微かな苛立ちを覚えた。
「いや、何でもない」
 その日から間もなく、クリスの身体はさらに輪郭を失い始めた。
 差し出された手の向こうに景色が透けて見えた時、雨彦はとうとう彼の手首を掴む。
「海の王ってのは、疲れると身体が透けるものなのかい?」
 クリスは困ったような笑顔を浮かべ、何も答えなかった。
 掴んだ手首は確かにそこにある。けれど、指の下に感じるはずの感触はひどく頼りない。冷たさだけが残り、まるで水の中に手を差し入れているようだった。
「……すまない」
 慌てて手を緩めると、クリスはそっと手を引き、海へ目を向けた。
「流れが、また変わったようです」
 その声は、いつもと変わらなかった。
 雨彦はようやく、一つの可能性に思い至る。
 汚れが氷の大地に流れ着いても、氷そのものが侵されることはない。表面の汚れを取り除けば、ひとまず片が付く。
 けれど、海は違う。
 海に流れ込んだ汚れやそれを纏ったものは、水に溶け、潮に乗って広がっていく。水そのものに混じり込んだものを、全て取り除くことは出来ない。
 そして、海の王であるクリスもまた、その影響を受けているのではないか。
 雨彦達は汚れの原因が人間の営みにあることを突き止めていた。汚れを生み出す営みが続く限り、取り除いたそばから新たな汚れが流れ込む。海全体に広がったものを元に戻す手立ては、いまだ見つかっていなかった。
 クリスの不調も、悪化する一方だ。
 会う度、髪の先が風にほどけ、指先が陽光に溶けていく。それでもクリスは、海について語る時だけは笑っていた。
「海は広いものです。少しずつでも元の姿を取り戻してくれれば……」
 その声を聞きながら、雨彦は何度も口を開きかける。
 汚れが氷を侵さないのなら、海を氷に変えることで、その影響を断ち切れる——少なくとも、これ以上影響を受けることは無くなるのではないか。
 けれど、海を凍らせたあと、クリスはどうなる?
 海の王が海を失っても存在し続けられるのか。氷の王としての在り方を与えれば、彼の存在も保たれるのか。
 何一つ、確かなことはなかった。
 それでも、その考えに縋りたくなるほど、他に彼が消えずにいられそうな可能性が思い付かない。
 雨彦は、口を閉じた。

 +++

 その日、雨彦はいつもより早く海辺へ向かった。
 クリスの姿はない。
 試すなら、今しかなかった。
 雨彦は波打ち際に立ち、海へ手を翳す。冷気が指先に集まり、水面に薄い霜が走った。しかし、沖から押し寄せる水がそれを覆い、忽ち溶かしてしまう。
 力の流し方を変え、波打ち際の一角へ集中させる。今度は薄い氷の膜が残った。これなら時間はかかるが海を凍らせることは出来るだろう。
 問題は、クリスをこの方法で永らえさせることが出来るかどうかだ。現状では成功するかどうかは賭けになる。だが恐らく、クリスにはもう、あまり時間が残されていない。

 次の日も、その次の日も、雨彦は海辺へ通った。
 クリスと顔を合わせれば、いつもと変わらない顔をして話を聞く。凍らせた場所には近付かせないよう、さりげなく話題を変えることもあった。
「今日は少し、流れが違うようですね」
 クリスがそう言った時、雨彦は一瞬だけ息を止めた。
「潮の流れなんて、毎日変わるものだろう」
「そうですね。ですが、少し気になります」
 クリスは納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
 岸辺の氷は少しずつ広がっていった。凍った範囲では波の動きが鈍り、薄い氷の下に水が閉じ込められていく。
 それでも海全体から見れば、ほんの一部に過ぎない。
 クリスに会えない日は、凍結を進めることが出来た。だが、海辺を巡っても彼の姿が見当たらないと、雨彦の胸には落ち着かないものが残る。
 どこかで倒れているのではないか。そんな考えが浮かぶ度、雨彦は作業を切り上げ、岸辺の先まで足を延ばした。
 姿が見当たらなければ彼の城で休んでいるのだと自分に言い聞かせ、姿を見つければ安堵する。けれど、笑顔を見ると、同時に罪悪感が胸の奥へ沈んでいった。
 自分は彼がこよなく愛する海を、彼に隠れて奪っている。
 それでもやめるわけにはいかなかった。

 ある日、凍結を進めていた雨彦の背後から声がした。
「……雨彦?」
 振り返ると、クリスが立っていた。顔色は悪く、亜麻色の髪は所々輪郭を失っている。それでも彼は穏やかに微笑んだ。
「いらしていたのですね。少し遅くなってしまいました」
「……ああ」
 クリスは雨彦の傍らを通り、海を見た。そして、足を止める。
「これは……、どうして、ここが凍っているのですか?」
 雨彦は答えない。答えられない。
 クリスは氷へ近付き、しゃがみ込んで手を伸ばす。氷の表面に触れてから、ゆっくりと顔を上げた。
「自然に出来た氷ではありませんね。……雨彦。あなたが、凍らせたのですか?」
「ああ」
 しばらく沈黙が続く。
「……何故ですか」
「……」
「まだ、取り返しが付かないほど汚れを受けてしまったわけではありません。深いところには命が残っています」
「分かってる」
「ならば、どうして……!」
 クリスの身体が大きく揺らいだ。頬の輪郭が崩れ、藍色の装束の肩越しに海が透けて見える。
 雨彦は手を伸ばしたが、クリスは拒むように一歩退いた。
「汚れを止める術を探す協力をしてくれていたのではなかったのですか?」
 雨彦は拳を握り締める。
 理由を告げればクリスはきっと拒むだろう。けれど、今更やめることなど選べない。
「……すまない」
 そう呟き、雨彦は全身の力を解き放つ。
 波打ち際から氷が広がっていく。薄い氷が波の形を閉じ込め、さらに沖へと伸びていった。氷の縁に亀裂が走る度、雨彦は冷気を注ぎ直す。
 クリスもまた、海の王として海を守ろうと力を放った。
「やめてください……!」
 海面の氷が軋み、亀裂が広がる。雨彦は歯を食いしばり、凍結を押し進めた。
 海の王の抵抗を抑えながら、凍りにくい海を凍らせる。それは想像していた以上に過酷なものだった。
 クリスが雨彦の腕を掴む。
「お願いです……!海を凍らせないでください!」
 雨彦はその手を振りほどかなかった。代わりに、そっと手首を掴む。
「……すまない」
「謝らないでください。止めてください、雨彦!」
 クリスの身体がまた大きく透けた。その姿に胸を締め付けられながらも、雨彦は力を緩めない。
 海が氷となれば、クリスも氷の王として生きられるかもしれない。その可能性に賭けるしかないのだ。
「どうして……。あなたは、どうして私から海を奪うのですか」
 雨彦は答えられなかった。
「私は、まだここにいたいのです。私は、まだ……この海の王なのです」
 その言葉が、胸に突き刺さる。
 クリスが愛している海。毎日見守り、そこに生きる命たちを慈しんできた場所。彼がここに存在する理由そのもの。
 それを奪おうとしているのは、他ならぬ自分だ。
 けれど、もう止まれない。
 雨彦はクリスを抱き留め、残る力を海へ注いだ。波が形を保ったまま固まっていく。潮の流れが弱まり、海の匂いも、遠くで鳴いていた海鳥の声も、次第に遠ざかっていった。
「雨彦、お願いです……!」
 クリスは何度も身をよじる。雨彦はその身体を抱き留め、氷が砕ける度力を注ぎ直した。
 腕が重い。息をする度胸の奥が軋む。それでも、力を止めることは出来なかった。
 やがてクリスは声も出せなくなったのか、困惑と怯え、そして深い悲しみを浮かべた瞳で雨彦をただ見つめていた。その目を見返せず、雨彦は彼を抱き締める腕に力を込める。
「……すまない」
 直後、クリスの身体からふっと力が抜けた。
「っ……!」
 慌てて抱き留め直す。けれど、腕の中の身体はあまりにも頼りない。抱き締めているはずなのに感触はひどく希薄で、少しでも力を緩めれば、指の隙間からすり抜けてしまいそうだ。
 クリスは目を閉ざしている。呼び掛けても、もう反応はない。
 意識を失ったのだと気付いた瞬間、雨彦の胸の奥で何かが軋んだ。
「……頼むから」
 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。雨彦はクリスを抱き締めたまま、残された力を全て注ぎ続けた。けれど、どれだけ海を凍らせても、クリスの身体に確かな感触は戻らない。
 腕の中にいるはずなのに、そこにいるという実感が薄い。抱き締める腕には重みがあるはずなのに、まるで霧を抱いているようだった。
――駄目なのかもしれない。
 胸によぎった疑念に、雨彦は唇を噛んだ。自分のしていることは、クリスを救うどころか、消し去ろうとしているのではないか。
 それでも、雨彦は力を止めなかった。ここで手を離せば、全てが終わってしまう気がした。ここで諦めてしまえば、きっとクリスは本当に消えてしまう。二度と名前を呼ばれることも、その笑顔を見ることも出来なくなる。
 それだけは、耐えられなかった。

 どれほどの時間が過ぎたのか、もう分からない。凍り付いた海は、どこまでも白く広がっていた。自分の呼吸も指先の感覚も、次第に遠のいていく。
 それでも、腕の力だけは緩めなかった。
 限界が近付き、雨彦が意識を失いかけたその時、腕の中に微かな重みを感じた。
 視線を落とすと、藍色だった装束が、いつの間にか氷の王達と同じ、白い装束に変わっている。
「……お前さん?」
 返事はない。
 それでも、消えかけていた輪郭が少しずつ形を取り戻していた。氷の力が彼の存在に馴染み、ほどけていたものを繋ぎ直しているのだ。
 雨彦は、殆ど残っていない力を振り絞り、氷の力を注ぎ続けた。
 海面はどこまでも凍り付いていた。氷の下には、深い水が閉じ込められている。全ての命が失われたわけではない。凍結を免れた場所も、氷の下に残されたものもあるだろう。
 けれど、かつての海はもうなかった。
 波音も、潮の匂いも、絶えず変化していた水面も。そして、その王であるクリスも。

 +++

 どれほどの時間が過ぎたのか、雨彦には分からなかった。
 腕の中のクリスは、静かに目を閉じている。記憶しているより白くなった頬の輪郭はもう揺らいでいない。そっと触れると、指先に確かな感触がある。
 そこで初めて、雨彦は息を吐いた。
 その息が白く凍り付いていくのを、しばらく見つめていた。
 やがてクリスが目を開く。
 亜麻色の髪も、怜悧な顔立ちも、かつてと変わらずそこにあった。
 けれど、彼は雨彦を見ても何の感情も示さなかった。
「……あなたは?」
 静かな問いだった。
 クリスは不思議そうに首を傾げ、周囲を見渡す。目の前に広がるのは、どこまでも続く白い氷の大地。波の音も、潮の匂いもない。かつて彼が愛した海の姿は、もうどこにもなかった。
「……綺麗な場所ですね」
 周囲を見回したクリスはそう言って微笑む。その笑顔を見た瞬間、雨彦は全てを理解した。
 クリスは助かった。
 海の王としての在り方を失い、海の記憶も、かつて雨彦と過ごした時間も失ったのだろう。それでも、彼はここにいる。氷の王として、新たな生を歩み始めることが出来る。
 雨彦が望んだ通りに。
 それなのに、胸の奥には何の安堵もなかった。
 クリスはもう、海について語らない。朝焼けの海に目を細めることも、過酷な環境でも懸命に生きる命に目を輝かせることもない。
 彼が愛していたものを、雨彦自身が奪ったのだ。理由を告げることもなく、最後に願ったことさえ踏みにじって。
 雨彦は、クリスの肩にそっと触れる。
「どうしたのですか?」
「……いや。何でもないさ」
 声が震えないよう、いつもの調子を装う。
 全て自分で選んだのだ。ならば、その結果を受け入れるしかない。
 クリスは穏やかな顔で白い大地を眺めていた。そこに海を見出すこともなく、失ったものを惜しむ様子もない。
 もう、波は寄せてこない。
 どれほど耳を澄ませても、あの音は聞こえなかった。
「……これで、良かったんだ」

 誰に聞かせるでもなく、雨彦は呟いた。

 クリスは消えなかった。

 それだけが、雨彦に残された救いだった。

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