心の波間で

「おはようございます」
 雨彦が事務所のソファに腰かけていると明朗な挨拶と共にクリスが事務所に姿を現した。服装や荷物を見るに、今日は海へ潜ってから来た訳ではないらしい。
「おはようさん。電車の遅延やらに巻き込まれて北村とプロデューサーは少し遅れるそうだ」
 とはいっても比較的事務所の近くまで来てはいるので迎えはいらない、と双方から連絡が入ったばかりだ。今日はこれから打合せの予定だが、まだ時間に余裕があるので予定の時間からそう遅れずに打合せを開始できるだろう。
 ユニット用のチャット画面を開いたスマートフォンを見せながら雨彦が言うと、クリスはわかりましたと口にする。自身のスマートフォンを確認し、確かにそのような連絡が入っていますね、と頷いた。
「ところで雨彦は何をしているのですか?」
 雨彦の向かいに座りながらクリスが小首を傾げる。その仕草に雨彦は「ああ」と笑った。
「机に広がってたモンでな。暇つぶしに見させて貰っていた」
 雨彦の前には式場や指輪など、ウェディング関係のパンフレットが置かれている。正確には雑に重ねられていたそれらをキチンと揃え、並び順まで整理した後で流し見をしていたのだが、要約すれば雨彦が口にした通りになるだろう。
「次の仕事の資料でしょうか?」
「或いは仕事を貰う為の営業用の資料かもな」
 様々な会場、メーカーのパンフレットがあることを考えると後者であるような気はしている。
「見せて頂いても?」
「どうぞ」
 まあ俺の物ではないんだが、と続けながらパンフレットを差し出す。
 雨彦からパンフレットを受け取ったクリスは丁寧な手つきでそれらに目を通し始めた。ややあって「これは!」と興奮した声を上げる。
「海をモチーフにした指輪もあるのですね!」
 クリスの手元を覗き込むと、波の形をイメージしたらしい指輪や、青い色の入った指輪が並ぶページが開かれている。
「そうみたいだな。さっきそのパンフレットを見たが、お前さんはきっと気に入るだろうと思った」
 キラキラと輝く目で嬉しそうにしているクリスを見て、雨彦も笑みを深くする。
 雨彦は結婚や恋愛というものに関心が無かった。いずれ家の決めた相手と見合いをし結婚することになるのだと理解していたから、そういったものに対する自分の意志など必要ないと思っていた。自然、婚姻に纏わる式や指輪やらにも興味などなかったのだ。
 けれど、クリスが楽しそうにパンフレットをめくり、時折感想を口にする姿を見ていると、雨彦の胸に小さな感情が芽生える。
「共に歩むことを誓うものに、海を取り入れる……素晴らしいです」
 クリスはそう言いながら柔らかく微笑む。その笑顔を見た瞬間、雨彦の心に小さな波紋が広がった。
――もし、俺が誰かの為に選ぶ日が来たら。
 自然とそんな思いが浮かんでくる。自分はどんなものを選び、相手はどんな顔をするのだろうか。想像したこともない未来のはずなのに、不思議と頭の中には、クリスがその場にいる景色が思い浮かんだ。
 雨彦はその景色に対して戸惑いを覚えるよりも先に、自分の感情が収まるところに収まったような心地を覚える。
「……雨彦? どうしましたか?」
 その声にハッと我に返る。
 いつの間にか、パンフレットを読むクリスの手元よりもその笑顔から目が離せなくなっていて、それを誤魔化すように雨彦は曖昧に笑う。
「遅くなりました!」
「お待たせしちゃったかなー」
 お互いが口を開くより前に、プロデューサーと想楽が事務所に入って来た。
「お疲れ様です。私も先程来たばかりなので大丈夫ですよ」
「二人ともお疲れさん」
「では早速ですが会議室に行きましょうか」
クリスが机の上のパンフレットを整え、立ち上がる。それを横目に見ながら、雨彦はそっと心の中で思った。
――お互いの為に選んだ指輪で誓いを立てる時が来たら。その時、古論の笑顔を見られたら悪くない。
言葉にはせず、ただその思いを胸に秘めたまま、雨彦はクリスと肩を並べて歩き出した。
事務所のドアを閉めた瞬間、わずかな風が吹き込んで机の上のパンフレットをめくった。寄り添う波模様が描かれたページが、どこか未来への道しるべのように揺れている。
まだ言葉にはならないけれど、その先に続く穏やかで優しい物語を予感させながら、雨彦はクリスの隣を歩いていった。

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