分別の外

 収録と自主的な掃除を終え、局を出ようとしていた雨彦は、廊下でクリスが他事務所のタレントに呼び止められているのを見かけた。
「へえ、そんなに海が好きなんだ。話している時の君って本当に楽しそうだね」
「ありがとうございます! 海にはまだまだ私たちの知らない魅力がたくさんあるのです。たとえば、海洋生物の生態ひとつを取っても――」
「うんうん、すごく興味深いよ」
 男はなおざりな相槌を打ちながらクリスを見つめている。
 クリスが海について話すときの表情はいつも生き生きとしていた。仕事の打ち合わせでも、収録の合間でも、海の話題になれば途端に明るくなる。その知識や情熱が誰かに伝わることを雨彦も嬉しく思っている。
 けれど、何の疑いもなく言葉を重ねる彼を前に、男の視線は話の内容とは別のところに及んでいた。
「でも、僕は海の話より君自身のことが聞きたいな」
「私自身、ですか?」
「そう。好きな食べ物とか、休日の過ごし方とか。恋人はいるの? 良かったら今度食事でもどうかな。ゆっくり話してみたいな」
 クリスは不思議そうに首を傾げる。誘いの意味が分からない訳ではないのだろう。けれど、海の話から急に自分自身への関心へと話題が移り、どう返事をすれば良いのか迷っているようだった。
 雨彦は小さく息を吐く。
 男の言葉も、視線も、そこに含まれた意図も、察するには十分だった。
 クリスが誰かに好意を寄せられること自体は珍しくもない。彼は人当たりが良く、見目も良い。その上、飾り気のない表情には思わず目を奪われるような魅力がある。仕事を通じて新しい人と出会う機会も多いのだから、こうしたことはこれからもあるだろう。
 それをわざわざ咎めるつもりはない。クリスが誰と話し、誰と親しくなるかは彼自身が決めることだ。
 ただ、目の前の男がクリスに向けている関心は単なる好奇心ではなさそうだった。
 雨彦は少し歩調を速める。
「古論」
 二人の間に声を差し挟むとクリスがこちらを振り返った。
「雨彦!」
 自分を見つけた途端に明るくなる顔に胸の奥の苛立ちが少し和らぐ。けれど、今はそれを味わっている場合ではない。
「そろそろ出る時間だろう。次の予定もあるんでね」
「あっ、そうでしたか。すみません、話し込んでしまいました」
 クリスは慌てて男に向き直り丁寧に頭を下げた。
「お話を聞かせていただき、ありがとうございました。食事のお誘いについては……申し訳ありませんが、少し考えさせてください」
「もちろん。急がなくていいよ」
「では失礼します」
 雨彦は男に軽く会釈を返し、クリスを促してその場を離れる。背中に視線を感じた気がしたが、振り返ることはなかった。
 駅へ向かう道に出ると局内の喧騒が遠のき、夕方の冷えた空気が肌に触れる。仕事を終えた後のいつもと変わらない帰り道。隣には先程まで別の男と話していた恋人がいる。その事実を意識してしまう自分に雨彦は内心で苦笑する。
 クリスをあの場から連れ出したのは、彼が返事に困っているように見えたからだ。そう説明することは出来るし、実際、それも理由のひとつではある。
 けれど、もしクリスがあの誘いを受け入れていたら。そう考えた途端に胸の奥がざわついたことまで、単なる気遣いで片づけるのは難しかった。
「雨彦」
 隣を歩くクリスが遠慮がちに口を開く。
「先程はありがとうございました」
「礼を言われる程のことじゃない。丁度出るところだったからな」
「そうでしたか」
 クリスは頷いたものの、何かを考えるように視線を落とした。
 普段なら収録の感想や見える景色の話など、様々な話題を見事に海に絡めて話し始める。その彼が言葉を選んでいるのを見て、今日は珍しいなと思う。
「どうした、古論。何か気になることでも?」
「いえ、……雨彦は先程の方に、少し……、怒っていたのでしょうか?」
 雨彦は内心で苦笑した。
 平静を装ったつもりだったがどうやら気付かれていたらしい。クリスは時折、こちらが隠しておきたい感情まで見つけてしまう。
「そう見えたのなら悪かった。お前さんを困らせるつもりはなかったんだが」
「私を?」
「お前さんは食事に誘われていただけだからな。俺が気にすることじゃないだろう」
 なるべく何でもないことのように言った。クリスが誰と親しくなろうと、それが彼の世界を広げることに繋がるのなら、喜ばしいことだと思っている。けれど、恋人として何も感じない訳ではなかった。
「……そうですね」
 クリスはそう答えたが、どこか歯切れが悪い。
 雨彦が横目で顔を窺っていると、クリスはしばらく迷った末に頬をほんのりと赤くした。
「その……、私はてっきり雨彦が、あの方に少し嫉妬してくださったのかと……」
 雨彦は一瞬、返す言葉を失った。
「嫉妬?」
「いえ、違っていたらすみません。私が勝手にそう感じただけですので」
「謝ることじゃないさ」
 否定するのは簡単だった。
 クリスが困っているように見えたから声をかけた。それだけのことだと説明すれば、きっと彼も納得するだろう。
 けれど、クリスは困ったように微笑みながらもどこか嬉しそうだった。その表情を前にすると取り繕うのも違う気がする。
「……嬉しかったのかい?」
 雨彦が尋ねると、クリスは少しだけ目を伏せた。
「はい」
 短い返事ながら、そこには躊躇いながらも確かな喜びがあった。
「雨彦が私のことを気にかけてくださっているのは、普段からよく分かっています。ですが……、あのような時に少しだけでも独占したいと思ってくださったのなら、嬉しいです」
 雨彦はしばらくクリスを見つめていた。
 この男は、本当に。
 クリスの選択を尊重し、余計な負担をかけないようにする。それは雨彦が大切にしてきたことだった。彼の世界を自分の都合で狭めたくはないし、恋人だからといって、何もかも把握していたい訳でもない。
 ただ、クリスが誰かと楽しそうに笑い合っていると、ほんの少しだけ面白くないことがある。自分の知らない話題で盛り上がっていると、そこに加わりたいと思うこともある。そして、誰かが彼に特別な関心を向けていると知れば、胸の奥が落ち着かなくなる。
 そんな気持ちを表に出せばクリスの自由を狭めてしまうのではないか。そう思い、これまでは自分の中にその感情を押し留めて来た。
 けれど、クリスは今、その感情を知りたいと言っている。
 知って、嬉しいとまで言ってくれた。
「……参ったね」
 雨彦は小さく笑う。
「お前さん、そういうことを簡単に言うもんじゃない」
「簡単に言ったつもりはありません」
 クリスは少しだけ眉を下げた。からかわれたと思ったのか、それとも自分の気持ちを軽く扱われたように感じたのか。その表情には真剣な色がある。
「私なりにずっと考えていました」
 その言葉に雨彦の胸が静かに熱を帯びた。
 クリスもまた、思うところがあるのだろう。二人で時間を重ねる中で、雨彦の言葉や態度から何かを感じ取っていたのかもしれない。
 そして今、自分の気持ちを確かめるように、真っ直ぐに伝えてくれている。
「俺が本気で独占欲を出したら今みたいに笑っていられるとは限らないぜ?」
 冗談めかした言い方を選んだつもりだった。けれど、声に滲んだものまでは隠しきれない。
「お前さんが誰と話そうと、誰と親しくなろうと、俺はそれを止めるつもりはない。お前さんが自分で決めることだからな」
「はい」
「ただ、何も思っていないわけじゃない。……時々は、俺だけを見ていて欲しいと思うこともある」
 口にした途端、長いあいだ胸の奥に押し込めていたものがゆっくりと形を持ちはじめた。
 誰かと親しくなるなと言いたいわけではない。ただ、その広い世界の中で、自分も彼にとって特別な場所を占めていたい。他の誰にも代わることの出来ない存在でありたい。
 そんな願いを伝えることさえ、これまでは遠慮していた。
 クリスは驚いたように目を見開いたが、やがて少しだけ表情を和らげる。
「雨彦」
「うん?」
「私は、雨彦に見ていて欲しいです」
 クリスは照れくさそうにしながらも、目を逸らさずに続ける。
「もちろん、ずっと私だけを見ていて欲しいという訳ではありません。雨彦にも、雨彦の世界がありますから」
 クリスらしい言葉だった。相手を大切に思うからこそ、その人自身の世界も尊重したいのだろう。
 それでも、二人の間にだけあるものは、確かに存在している。
「ですが、私が雨彦にとって特別な存在であったら嬉しいです。私も、雨彦を特別に思っていますから」
 夕暮れの光がクリスの横顔を柔らかく照らしていた。
 真っ直ぐな言葉だった。何かを約束させようとする訳でも、雨彦の気持ちを試そうとする訳でもない。ただ、自分はそう思っているのだと伝えてくれている。
 雨彦は目を伏せる。これは、思っていたよりも厄介なことになりそうだ。
 これまでは、クリスが望むことを応援し、困っているときには力になる。傍にいられるだけで十分だと考えていた。
 けれど、クリスが望んでいるのなら、自分の気持ちをもう少し見せてもいいのかもしれない。
 大切なのは独占欲を抱かないことではなく、その感情を理由に相手の選択を奪わないことだ。自分が何を望んでいるのかを伝えた上で、クリスがどうしたいのかを聞く。それなら、互いを尊重しながら、もっと素直に気持ちを伝え合えるはずだ。
「……それなら、ひとつ頼みがある」
「何でしょう?」
「今度誰かに食事に誘われたら、俺にも教えてくれないか」
 クリスが瞬きをする。
「それは……、どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
 雨彦が問い返すと、クリスはしばらく考え込んだ。やがて、その頬にまた赤みが差す。
「……雨彦が、気にしてくださるから、でしょうか」
「ああ」
 雨彦は笑った。
 誰から誘われたのか、どんな話をしたのか。そんなことを知りたいと思っても、これまでは自分から尋ねることはなかった。聞きたいという気持ちを表に出すのは、相手の自由に踏み込みすぎるような気がしていたからだ。
 けれど、知りたいと思うことまで、無かったことにする必要はないのだろう。
「もちろん、報告を義務にするつもりはないさ。お前さんが話したいと思ったときに、聞かせてくれればいい」
「はい。わかりました」
 クリスは嬉しそうに頷いた。その笑顔を見ていると、雨彦の中で何かがゆっくりとほどけていく。
 自分が望んでいることを伝え、クリスの望みも聞く。必要なら話し合い、互いに心地良い距離を探していけばいい。そう考えると、これまで頑なに守ってきた境界も、少し違って見えた。
 そして、もしクリスが許してくれるのなら。
 雨彦は、もう少し欲張りになってもいいのかも知れない。
「古論」
「はい、雨彦」
「手を借りても?」
 クリスは一瞬きょとんとした後、すぐに表情を和らげる。
「もちろんです」
 差し出された手に、雨彦はそっと自分の手を重ねた。
 指先が触れ、躊躇いがちに絡む。クリスの手は温かかった。
 人通りのない道で、手を繋いで歩く。それだけのことが、思いのほか心地良い。
 クリスの知識や情熱を尊敬し、一緒に過ごす時間を心地良く思う。その気持ちは恋人になった今も変わらない。彼の世界が広がって行くことを、これからも心から応援したい。誰かと親しくなり、新しいものに出会うクリスを、雨彦はきっと喜んで見守れるだろう。
 それでも、時には自分だけに向けられる笑顔が欲しい。二人きりの時にしか見せない表情や、他の誰にも話していないことを、自分には聞かせて欲しい。そして、クリスにも、自分が彼を特別に思っていることを知っていて欲しい。
 独り占めしたい。そんな気持ちを抱く自分を、もう必要以上に咎めなくてもいいのかもしれない。
「雨彦?」
 呼びかけられ、雨彦は思考から引き戻された。
 隣を見れば、クリスが不思議そうにこちらを見詰めている。考え込んでいる内にいつの間にか黙り込んでしまっていたらしい。
「いや、何でもない」
 雨彦が指先に僅かに力を込めると、彼もそっと握り返してくれた。その小さな反応に雨彦は自然と口元を緩める。
「ただ……今日は、もう少し一緒にいたいと思ってね」
 花が開くようにクリスが笑う。
「私もです」
 その返事を聞いて雨彦はようやく素直に笑うことができた。
 広い世界のどこにいたって、自分が彼を誰よりも欲しがっていることくらいは、忘れられないようにしてやろう。
 ――まったく、困った恋人を持ったものだ。
 そう思いながら、雨彦は繋いだ手を離さなかった。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!